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萬古焼の歴史
萬古焼の特性 萬古焼の製造工程
江戸時代.1江戸時代.2江戸時代.3明治時代大正時代昭和時代


■ 軽質陶器の登場
昭和初年の不況時に、輸出陶磁器の滞貨が増加し、業者の濫売[らんばい]競争が興[おこ]り、共倒れの様相を呈した。その対策として、各地に工業組合が生まれ、日本陶磁器工業組合連合会によって、製品の製造と販売の統制が実施された。昭和七年に、統制外の軽質陶器が生まれた。これは、笹岡伊三郎、塚脇鉄次郎の協同考案による石灰質陶器であり、昭和一六年の太平洋戦争勃発まで作られた。

■ 硬質陶器の完成
大正焼の創始者水谷寅次郎は、英国で考案された硬質陶器を四日市に実現させるのが目的だったが、工場の規模、設備、技術の点で中小企業者には無理な企てであった。その途中に生まれた大正焼の製造に関わっていた東阿倉[ひがしあくら]川の山本増次郎は、本格的硬質陶器に執着し、大正末頃から研究を続け、昭和二年に完成し、その後も、改良研鑽[けんさん]を重ねて大成させた。

■ 戦時下の萬古焼
生産額の六〇%を占めていた対米輸出が途絶え、その他の輸出、内地向品の売れ行きが減少した業界は、途方に暮れた。そこで戦時下に必要な製品に転換することになり、耐火煉瓦の製造が始まった。これは海軍工廠[こうしょう]に納入された。金属の代用品、酸化鉄を焼成して鉄に還元する海綿鉄の試作、航空機用碍子[がいし]、暗渠[あんきょ]排水の土管も製造された。
人出不足に、芸妓が挺身隊として陶器造りに献身した逸話も残っている。

■ 焼け跡からの復興
昭和二〇年六月一八日の大空襲で、萬古焼の製造設備の約八割と販売業者の施設の殆どが焼失した。残ったのは羽津[はず]、阿倉川地区のみ。終戦時の物資不足とインフレの中、罹災者も元の地に帰り生産を始めた。戦後の好況と業者の熱烈な復興心によって瞬[またた]く間に戦前の勢いを取り戻した。中でも相次ぐトンネル窯の築造、白雲[はくうん]陶器の完成は特筆すべきである。

■ 戦後の製品の変化
戦後、輸出向品は国際関係上各種の制約をうけて、伸びなやんでいたが、米国向の品は徐々に活況を呈してきた。昭和二三年白雲陶器の大量生産に成功したことや、四日市研究所における「ボンチャイナ」の製品化に成功したことなどが戦後における四日市陶磁器工業の発展に少なからぬ貢献をした。しかし製品の中心は大正焼の系統をひく半磁器であり、玩具や置物などのノベルティー製品の生産が伸張していた。

■ 時代のニーズに応える萬古焼
戦後の混乱期が過ぎて、どの家庭にも平和と生活の安定が訪れたのであろうか、盆栽愛好者も次第に増え植木鉢の需要が高まった。又、家庭の必需品としての鍋食器の新たなる製品開発を推し進め、四日市萬古焼の最も誇りとする商品に育て上げた。他にも終戦となるやいち早く生産を開始した花器類が安定した全国シェアを占め、昭和五〇年代には八〇%に達しようとしてる。他にも皿鉢、急須等生活と密接に結びついた生活陶器を生産している。

■ 伝統工芸品の指定
昭和五四年に四日市萬古焼は、通商産業大臣から伝統的工芸品として指定された。その内容は、
(1)「四日市萬古焼」の統一名称
(2)茶器を主とした用途
(3)伝統的な製造工程
(4)伝統的な技術又は技法
1.ロクロ、押型、手ひねりによる成形
2.透[す]かし紋、びり、千筋など一四種類の
 素地[したじ]の模様付け
3.釉[ゆ]薬掛け
4.盛り上げ、ぼかし、たたき、イッチン、線描きなどの
 和絵具[わえのぐ]金銀彩絵具[いろえのぐ]による上絵付け
5.原材料
6.四日市市を中心とした製造の地域である。


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