
■ 四日市萬古の始まり
四日市には、有節萬古より前の文政一二年(一八二九年)に信楽焼風の雑器窯が東阿倉川唯福寺[ゆうふくじ]に始まっていた。海蔵庵窯[かいぞうあんがま]という。後に、ここに来て焼き物の手ほどきを受けた末永の庄屋山中忠左衛門は、有節萬古に憧れていた。嘉永六年(一八五三)には、邸内に窯を築いて、有節萬古の研究に本腰を入れた。その二〇年に及ぶ苦労が四日市萬古の始まりである。
■ 山中忠左衛門[やまなかちゅうざえもん]
海蔵川、三滝川に挟まれた地区は、毎年水害があり、年貢も滞[とどこお]るほどの困窮民が多
かった。これらの人々を救済するために、萬古焼を地場産業として導入するのが、山中忠左衛門の願いであった。苦労して得た技を惜しみなく公開したために、萬古業者が次々と現われ、手捻りの半助、利助、豊助、木型の庄造、ロクロの佐造らが育ち、家内工が激増した。

■ 川村又助[かわむらまたすけ]
一時、滞貨した四日市萬古の販路を開いたのは、もと薬屋の川村又助であった。明治八年(一八七五)に萬古問屋を創業した彼は、優れた商才の持ち主だった。「原料に金が入っている」と言葉巧みに急須を売る話とか、意表をつく外人の接待など多くの逸話が残っている。やがて製造も始めた彼の活躍は、四日市萬古を四日市を担う産業に発展させた。
■ 堀友直[ほりともなお]
水車町で山中が本格的に開窯した明治三年(一八七〇)に四日市と東京の間に蒸気船の航路が開通した。その繁昌を見て、桑名萬古の一員であった元長島藩家老堀友直が、翌年、三谷で開窯することで、四日市萬古の地場産業としての基盤ができた。阿倉川の白土を原料に、木型、土型を駆使して、文明開化の雰囲気のあるものを量産し、内外に売り出した。
■ 地場産業としての発展
山中忠左衛門の困窮民救済の悲願と努力で、四日市に根を下ろした萬古焼は、堀友直、川村又助らの優秀な企業家の出現によって、内需は勿論、輸出も盛んとなり、地場産業として定着した。業界の一層の発展を期し、不当な競争を避け、品質の向上を計って萬古陶器商工組合が結成され、品評会も行われた。明治二十年の東海道線、二年後の関西鉄道の開通によって、販路は広がり隆盛となった。
■ 商業組合の設立
激増した萬古焼業者は、やがて同業者間の不当な競争から確執[かくしつ]が生まれた。これを解き、仕入れ、販売の情報を交換し、業者の専製権、専売権の規定を定め、粗製乱造の悪弊[あくへい]を正して、四日市萬古の質の向上発展を計ろうと、明治一八年(一八八五)に、川村又助、堀友直、森欣太郎[もりきんたろう]などの有力者によって、萬古陶器商工組合が組織され、品評会も開かれた。
■ 赤萬古
突飛なデザインの明治四日市萬古は、山中、堀、川村らの努力によって海外に大量に売り出された。その原料は、垂坂[たるさか]山を中心にした阿倉川、羽津地区の白土だった。緻密で粘着力のあるこの土が、明治中頃に枯渇すると、残る鉄分のある土による轆轤[ろくろ」製の紫泥急須[しでいきゅうす]に、製品転換が行われた。この赤萬古の製法は、美濃赤坂の温故焼[おんこやき]との協同によって生まれた。
|